| 1900年 |
美里間切伊波村に生まれる(現在のうるま市石川)。 |
| 1919年 |
沖縄県女子師範学校本科第一部卒業。
同年、国頭郡山田尋常高等小学校訓導(今の教師)となり、1948年大洋初等学校を退職するまで29ヵ年余教鞭を執る。 |
| 1921年 |
島有剛と結婚。五男三女の母となる。 |
| 1948年 |
米民政府越来村駐在の厚生員に就任する。これを振り出しに生涯を社会福祉事業に尽くす。 |
| 1952年 |
胡差児童保護所を設立する。 |
| 1953年 |
コザ女子ホームを設立する。 |
| 1958年 |
中部地区社会福祉協議会の事務局長に就任する。
その後、市社協設立理事、市赤十字奉仕団初代委員長、中部地区老人クラブ連合会副会長、県更正保護婦人会初代会長、社会福祉法人こばと福祉会理事長等数々の要職を歴任
する。 |
| 1988年 |
7月8日永眠。
※生涯に、勲六等宝冠賞、全国老人クラブ連合会長賞、県功労賞、沖縄
タイムス賞、琉球新報賞など60余の表彰を受ける。 |
貧乏神は、ずっとついて回りました。
※
売春はたしかに悪い、悪いことは誰でも知っています。(中略)「売春をやめろ」ということは簡単です。しかしこの人たちに、本当に自立できるような仕事を与えてやることが先決です。私の役目はそれではないかと考えました。
※
行く当てのない児童たちを、ただちに引き取ってくれる施設はありませんでした。このまま放置することはできません。私は「心の痛み」にたえかねてこの子たちを自分の家へつれてきて面倒を見ることにしました。
そうするしか方法がなかったのです。
私の家族と周囲の者の悪戦苦闘がここから始まることになります。
※
私は妻としては失格だと思いました。
※
私が、沖縄婦人連合会の理事に推せんされたとき「シラミと同居しているような女性は、理事としてどうかと思う」という声もあったそうです。この話をきいたとき、「私のしごとは認められた」と思ったものです。私がシラミと同居していることが那覇まで聞こえているとは、私も有名になったものです。
※
福祉をすすめるのは人です。
※
インテリのかたには、とくに若いインテリには、ボランティアを毛嫌いする人もいます。善意の押し売りはいやだと言うのです。しかし、これはぜいたくというものです。
十二分に食べていて、余り物をもったいをつけて恵むというのは、たしかにいやみですが、しかし、飢えている者にとっては、食べ物が必要なのです。私は、敗戦後のコザの街で、物乞いのようなことまでして、子どもたちの命を守ってきました。相手がアメリカさんであろうと、お隣の人であろうと施しを受けてきたことは事実です。そして、私はこの人たちに感謝してきました。
※
沖縄の方言でいう「チムグリサン(心が痛む)」ということばに、私は感動します。上から恵むのではなく、自分も腹をすかしていながら、少ない食事のなかから分けてやらなければ「自分の心が痛む」という、沖縄の民衆の心のありように感動するのです。
私は、この心を、たいせつにうけつぎ発展させたいと願っています。
|


頒価 : 1,800円
目次
|
私たちは、この本が一人でも多くのたかに読まれることを期待します。そして、島マス先生の志を継いで行く若い人たちが育っていってほしいと心から願います。
島マス先生は伊波小学校から美里の高等科へ進まれたとき、
行きぐりしゃ苦りしゃ楚南山城(そなん・やまぐしく)
ゆくん行きぐりしゃ栄野比川崎 (えのび・かーさち)
という琉歌を思い出したそうです。
美里への通学路は、橋のない川をわたる難所であったということです。島マス先生の福祉の道は、まさに橋のない川を渡り、そこに新しい道をつけていく苦難なお仕事でした。こんどは、私たちがバトンタッチをしていく番です。
=あとがきより<抜粋>=
|
(島マス先生回想録編集委員会編)
|
|